人生、楽しからずや!

京都の端っこに住んでる中の人

ユダヤ人にはなれないけれど、やばい日本人にはなれる

ユダヤ最強論、やばかったなぁ。というか、内田樹がやばい。

 

ユダヤを研究している人ってやばいイメージしかなかった。なにやら難しいことしかやってないと思っていたから、ヒトラーユダヤ人を迫害したように、脅威を感じる存在だったのかもしれない。

それはただ小難しいことを言ってるとしか思ってなかったし、専門性が高いものと勝手に思い込んでいて理解に苦しんでいたのだ。

でも、その理解はあっていたようだ。「ユダヤの世界は入り口だけがあって、出口がない」ものらしい。そして、「ユダヤのことがわからないと世界のことは分からない」というものらしい。

 

ドイツ人と日本人は賢い人種とか言われているが、私はユダヤ人が一番だと思う。ユダヤ的知性というもの、ユダヤ人固有の頭の使いかたを集団的な習慣として「家風」や「作法」として3000年もの間引き継いできたものならなおさらだ。

 

昔、ある中学教師がいた。

その先生が言っていたことを思い出した。

必ず、満場一致で事が運ぼうとする時、反対するのだ。なぜか?

「反対意見をいうことによって、なぜか考えるでしょ」というのだ。みんな賛成だから賛成ではなぜ賛成するのかも考えないじゃないという。その時は、「そうだな」と思いつつ、なんて、変わった先生と思っていた。(だから、今でも覚えていたのだけれど)

ある仮説が提示されたら、必ず反証事例を探し出す。でも、それはその仮説を否定するためじゃないんです。その仮説が適用できない事例があるということを示すのは、最初の仮説の適用範囲を限定して生かすためなのです。限定するのであって、否定するわけではない。
「あなたは間違ってる」と言っているのではなく、「あなたが正しいのは、この範囲においてである」という人間的真理の適用範囲を明らかにする。そして、提示された反証事例をも説明できるような、より広い適用範囲を持つ仮説を探そうとする。
人の推論を頭ごなしに否定するために反証事例を探してくるわけじゃないんです。既存の仮説の適用範囲を限定することによって、より広範で、よりタフな仮説の出現を促しているのです。

まさに、中学教師の思考もこれに似たものであった。教育者としては、いいのかもしれないが、生徒にはよくは思われてなかった。

例えば、彼らは質問に対して、質問で答える(笑)。ユダヤ人に向かって「……ですか?」と聞くと、「どうして君はそれを訊ねるのか?」と聞き返される。
問いに対して答えを与えるのではなく、その問いが出てきた文脈を前景化させようとする。こういうのは教義とも儀礼とも関係のない、作法ですね。宗教から離れたところでも、「知性を活性化するための対話のかたち」が作法として日常生活のうちに仕掛けられて、伝えられている。

知性を活性化するための対話のかたちとして、それを日本人がやろうとすると嫌われますね。でも、やってみたいかも。哲学カフェで知性を磨く。なんて笑

 

この「ユダヤ的知性」はいかに生み出されたのか。

面白すぎる。それは、腑に落ちまくるから。

そして、奥が深すぎる。秋の夜長に考えるには良い題材かもしれない。

newspicks.com

 

内田樹を勧めてくる先生がいたことを思い出した。その先生も変人だった。行動も奇行だったし、定期試験は穴埋め問題は一切なし。記述のみで論点が少しでも先生に気に入らないと容赦無く落とす先生だった。介護の専門学校には異質な先生だった。

その時、勧められて読んだ本がこれ。

 

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)